ゼネフェルダー

Aloys Johann Nepomuk Franz Senefelder

リトグラフは発見者や年代がはっきりしている、一番新しい版画技法です。発明者は ドイツ人のアロイス・ヨハン・ネポムク・フランツ・ゼネフェルダー[ Aloys Johann Nepomuk Franz Senefelder ](1771〜1834)で、俳優であった父親がプラハの舞台に出演していた際に生まれた。ミュンヘンで育ち教育を受け、インゴルシュタットで法学を学ぶ奨学金を受けた。1791年に父が没すると、彼は母と8人の兄弟姉妹を養うために学業を半ばであきらめ俳優となった。彼の書いた戯曲『娘達の鑑定家』[ Connoisseur of Girls ]は大いに成功した。自分の戯曲『マティルデ・フォン・アルテンシュタイン』[ Mathilde von Altenstein ]の印刷をめぐる問題により彼は多額の借金を背負い、新しく書いた戯曲を出版する余裕がなくなった。自費で印刷する為に最初は活版印刷(エッチング)を考え、小さな印刷所を設立しようとしていました。インクを練る台としてゾルンホーフェンで産出されるきめの細かい凝灰岩(石灰岩)の板を買った。ある日彼は油性クレヨンで石灰岩の上にメモを書き、後で硝酸で洗い落とそうとしたがクレヨンの跡が残ってしまった。この跡の部分にはよく油が乗ること,それ以外の部分に水がしみ込むことに気付いた彼は、石灰岩上のクレヨン跡に油性インクをのせ、紙を押し付けたところ紙にインクの形を転写することに成功した。彼はこうして、板を彫ったりして凹凸を作らずに済む、平面のままの印刷用原版を作る方法(平版印刷術)を発明した。
senefelderpresspress
彼は実験を進め、石灰石を版にして脂肪性のインキや耐酸性の脂肪クレヨンで直接字を書き、上からアラビアゴムと硝酸を混合した弱酸性溶液を塗ることで石灰岩に化学変化を起こさせる方法を編み出した。クレヨンで書いた部分には脂肪と硝酸が反応して脂肪酸ができ、脂肪酸は石灰岩の中のカルシウム(アルカリ性)と反応して油性インクの乗りやすい脂肪酸カルシウムができる。一方クレヨンで書かなかった部分には水を保つアラビアゴムの皮膜ができる。この石板の上に水をたっぷり乗せ、ローラーで油性インクを押し付けると、クレヨンで書いた部分にはインクが乗り、書かなかった部分は親水性の皮膜によって水が油性インクをはじいて、結果クレヨンで書いた部分だけにインクが残る。(それ以前に、ゴム引きした紙に油性インクで書いた時、その部分にだけ油が付く事を知っていた)この上から紙を押し付ければインクが紙に移り、文書の完成である。彼は音楽出版社を営んでいたアンドレ家[ André ]と共同で次第にこの原理を実用化できる技術へと変えていった。彼は石灰岩やクレヨンを化学変化させる方法と、インクを石板から紙に転写するプレス機の仕組みを研究し、これを完全なものとした。2年後の1798年に完成した印刷術を彼は「ストーン・プリンティング」「ケミカル・プリンティング」と呼んだが、フランス語による「リトグラフィー」[ lithography ]がより広まった。当時の印刷方式は、凸版と凹版しか知られていかったので、界面化学的なバランスの上に成り立つ新方式は魔法の印刷(magic printing)とまで言われた。
1800年にその詳細な特許願はイギリスの特許局に登録されました。また、この研究の合間に、石版術に付帯するほとんど全ての方法、用具や材料についても極めました。ゼネフェルダーはヨーロッパ中でこの特許を取得し、その発見のすべてに関する書物を1818年に出版した(Vollstandiges Lehrbuch der Steindruckerei、『石版術全書』)。1819年には英語とフランス語にも翻訳された(A Complete Course of Lithography)。この本は彼が石版印刷術を発見した経緯と石版印刷術を行うにあたっての実践的な解説とを合わせた内容で、20世紀初頭まで広く読まれた。彼はリトグラフの可能性を芸術の分野にも広げた。エングレービングなど熟練した技術を必要とする従来の版画とは違い、リトグラフは画家本人が慣れ親しんだペンで直接石の上に描くことが可能だった。1803年には早くも、アンドレ社はロンドンで芸術家達の作ったリトグラフを収めた画集『ポリオートグラフィの見本集』(Specimens of Polyautography)を出版している。以後、1810年代にはリトグラフは美術の新しい技法として、また大量印刷する商業出版物のための簡単で早い図版制作技法として急速に普及した。彼の死後の1837年、さらなる改良により、複数の版を使うことによるフルカラー印刷ができるようになった。このクロモリトグラフィー(chromolithography)は最初の多色印刷術であり、CMYKの四色印刷によるプロセスカラーが導入されるまでは最も重要なカラー印刷技法だった。ゼネフェルダーは 後に、金属版(亜鉛)でのリトグラフも開発し、バイエルン王国の国王マクシミリアン・ヨーゼフから勲章を贈られ、リトグラフ用の石材が産出されるゾルンホーフェンの町には彼の銅像が建てられた。アロイス・ゼネフェルダーの印刷における功績は、18世紀の「ステレオタイプ」の発明者ウィリアム・ジェド(William Ged)、蒸気で動く高速印刷機を発明したフリードリヒ・ケーニッヒ(Friedrich Koenig)、自動的に活字を鋳造するライノタイプを発明したオットマール・マーゲンターラー(Ottmar Mergenthaler)らの功績に匹敵する。リトグラフは印刷物を人々の手に入りやすいものにし、美術と新聞の分野に重要な影響を与えた。
stampリトプレス



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