ヘリオグラフィー

HELIOGRAVURE

ジョセフ・ニセホール・ニエプス(Niepce,joseph Nicephore 1765~1833年)と兄のクロードは「カメラオブスキュラ」を用いて、。世界で最初に映像を定着させる。

ニエプスはフランス中部、ソーヌ=エ=ロワール県のシャロン・シュル・ソーヌ(Chalon-sur-Saône)で地主の家に生まれる。キリスト教の牧師になるため神学校に通う。24歳の時、フランス革命(1789)。
父親がルイ王朝付弁護士であったため,王党派とみなされ、共和国建国後故郷に住めなくなる。兄のクロードは海軍に、ニエプスは陸軍に入隊。1801年、二人は故郷にもどることができる。協力して発明家になる。熱によって膨張した空気を動力源とする舟を動かす事のできる熱気エンジンの発明(1807年ナポレオン認定)。アメリカ大陸から輸入が禁止されているインディゴ(藍)の代用となる染料(大青の葉から抽出)の開発(フランス政府認定)。開発されたばかりのリトグラフ(石版)印刷で石版画の下絵を「カメラオブスキュラ」の写像からダイレクトに転写する製版技法の研究を始める。

1798年、アロイス・ゼネフェルダーにより化学反応を利用した石版印刷(リトグラフ)が発明され、この発明をパリに持っていくが誰にもあいてにされない。ヨーロッパで石版画が急速に流行し、微妙な筆遣いの再現が可能で、しかも制作が早くて簡単なリトグラフにより、風景画や風刺画などを大量に印刷し出版することができるようになり、草創期のマスメディアとも結びついて石版画工房が多数誕生したのは1814年以降のこと。

光が感光性の物質に作用すること発見したのは中世の錬金術師。硝酸銀の発見は12世紀。塩化銀の発見は16世紀。1724年、ドイツのアルトドルフ大学解剖学教授ヨハン・ハインリッヒ・シュルツが硝酸銀とチョークの混合物の上に物を置いて光を当てるとそのシルエットがつくられることをたまたま発見。陽画をフォスフォール(光をもたらすもの)、陰画を(スコトフォール)と命名。定着できず。イギリス人トーマス・ウエッジウッド(1742~1805)が、硝酸銀に浸した紙あるいは白い白い革のうえに線画を描いたガラスをのせて光線をあてると像が造られる事を発見。ろうそくの光では、見えるが太陽光線で黒変。失望。カメラオブスキュラの像を撮ろうとするが失敗。1802年、硝酸銀上に光の作用による影絵を作る方法の報告書を発表。定着できず。

1816年5月5日、ニエプスが「カメラオブスキュラ」を用いて、陰画の撮影に成功。定着できず。1822年7月、塩化鉄、二酸化マンガン、リンなど様々な感光剤を試す中で、エッチングのグランドの材料であるアスファルト(瀝青・ビチューメント)の一種をディペル油で溶解したものを磨いたピューター(錫が主成分の合金、後に銀メッキした金属板に改良)に塗り線画を重ねて「カメラオブスキュラ」にセット。8時間露光。アスファルトは光があたると硬化する。光があたった部分は硬化してないのでラベンダー油とディペル油の混合液で洗い流し、硝酸で腐蝕。インクをつめる陽画になる。「定着」に成功。世界で最初に映像を定着させる。

この方法を、太陽光により露光することからギリシア語の「ヘリオス(太陽)」と「グラフ(描く)」から作った造語「ヘリオグラフィー(太陽画法)」と名づけた。ar


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