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版画物語 001
「梅津庸一作品集『ポリネーター』刊行記念展 「遅すぎた青春、版画物語(転写、自己模倣、変奏曲)」
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銀座 蔦屋書店
〒104-0061 東京都中央区銀座6丁目10-1 GINZA SIX 6F
2023年04月01日(土) - 04月19日(水)
協力 : 艸居、Kawara Printmaking Laboratory Inc.、安藤祐美、みそにこみおでん、シエニーチュアン、阿部宏史、美術出版社 |
[本展に寄せて]
本展は梅津庸一による版画展である。100点以上に及ぶ多種多様なユニークプリントを中心に構成される。また制作プロセスを紹介するドキュメント映像も公開される予定だ。今回の出品作品はすべて町田市の「版画工房カワラボ!」で作られた。ひょんなことからこの版画展は企画されたが僕はこれまでほとんど版画に触れたことがなかった。それにもかかわらず制作期間は1ヶ月ほどしかなく、タイトなスケジュールの中で準備は進められた。現代美術作家による版画といえば代表作のアイコンをモチーフにしたエディション作品であるのが通例だろう。しかし、本展は一般的な版画展とは一線を画している。短い期間だからといって妥協するわけにはいかなかった。
今日、版画は芸術の一ジャンルとして知られているが、もともとは聖書をはじめとする書物の挿絵であり世界のあり方に変革をもたらした一大メディアだった。僕自身も20代の頃エルンスト・ヘッケルによるクラゲやヒトデ、有孔虫などが収められた『自然の芸術形態』に魅了され影響を受けた。また現在、日本において版画を考えるうえで「創作版画」と「教育版画運動」と昨今のアートマーケットで散見される現代美術作家による版画とでは意味合いや文脈が異なる。僕の今回の取り組みは現代アート界で活動する作家が版画工房で手際よくエディション作品を作るようなものではなく、先行世代のいわゆる「版画家」の仕事を強く意識しその精神を内面化することを目指した。
銅版画家の駒井哲郎は「私の芸術」(1970年)にて次のように語っている。
「もし多様な技法を用いても作品の世界は変わらないはずだと思うのは大きな間違いであって、物質を勝手気儘に扱おうとすると、物質によって手痛い復讐を受けるのであった。技法とはそう云うものなのである。」
版画の言説は技術や物質にまつわるものが圧倒的に多い。その点は陶芸と近いものがある。つまり版画も陶芸も技術や物質に規定されがちなジャンルである。僕は高い練度を要する版画家の仕事に短期間で肉薄するために必要なのは「ロマン」しかないと結論づけた。版画も陶芸も技巧とたいへんな労力を投入して作られるが最終的には鑑賞者に「味わい」や「叙情」を喚起させるものである。つまり論理的な動機づけを超えた熱情がなければ短期間で大量の版画を仕上げるのは不可能だし、そもそもそんな非合理的な試みに意義を見出すことは難しい。それにくわえて版画特有の網膜にとりつくような「味わい」を生み出すためには版画というメディウムを一時的であれ全面的に信頼し身を預けなければならない。そこで僕は「カワラボ!」での時間を「遅すぎた青春」と位置づけ、特別な時間の中で版画世界に没頭する契機とした。それは青春の再来を夢みる40歳の男の暗い私小説的な想像力にすぎないのかもしれない。しかし、思い返してみると僕は最初からそういう作家だった。これまでずっと政治的、美学的どちらの領域にも完全には属さない仕事を追い求めてきたつもりだ。ちなみにそれは普段からV系の音楽ばかり聴いていることとも無関係ではないだろう。
制作は版画の原理を「カワラボ!」の河原さん、平川さん、今泉さんから学びながら一発本番で進められた。刷り終えた版をシンナーでクリーニングする際のインクの汚れすらも紙で刷りとり「シンナー刷版画」として計上された。もはや失敗作や試し刷りなどというものはなく、この期間に生成されたものすべて出来は問わず作品と捉えることにした。作業は朝から晩まで続き時には深夜にまで及んだ。途中からは「カワラボ!」に泊まり込み生活と制作は地続きになっていった。「カワラボ!」のスタッフは刷師として僕の作った版をプレス機で刷ったり、次々と新しい版の準備をしてくれたりした。そこには厳密なルールはなく版画工房の基準を満たす職人の精度の高い仕事と僕の作家然としたラフな仕事が同時進行していた。銅版画やリトグラフのほかに巨大なモノタイプやあらかじめ僕が彩色した紙の上に刷ったもの、版画に過剰に手彩色を施したもはや「1点もの」のドローイングのようなものも作られた。また、作品集に掲載された過去作を銅板に写真製版したり、デジタルデータをプリントして手彩色が重ねられたりと、前近代的な技術とわりと最近の技術が「作家と工人」の関係性、もしくは友達同士のようなフランクなやりとりを通して複雑にまじり合い積み上がっていった。それは作品におけるオリジナルと複製の関係や、作者のアウラの有無をめぐる試行錯誤だった。言いかえれば作家における「固有性」とはなんなのか?また「つくる」とはいったいなんなのか?という素朴だが根本的な問いでもあった。
文芸的な感受性に根ざした版画の「味わい」の探求、多様性の名のもとに定義することが困難になってしまった現代美術というフレームの中でそもそも僕の取り組みは帰属する場所がないのかもしれないという不安、そしてアートマーケットと出版社の力学、さまざまな項が未整理のまま散らばった状態で本展は組織されていった。当初想定していた版画家然とした仕事ができたかと問われたらあやしいところだが、「カワラボ!」での「遅すぎた青春」はかけがえのない時間だった。
本展はまさに内なる自分の転写であると言えるだろう。制作を通して美術家を特徴づける主題や作風は自己模倣と紙一重であり、作家が作品制作を持続させる上で一種の鈍感さや不誠実さは必要なのかもしれないという気づきもあった。そして版画とは青春を複製する技術でもあるのだ。
梅津庸一
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ビジュツノゲンバ -梅津庸一個展「遅すぎた青春、版画物語(転写、自己模倣、変奏曲)」、版画工房カワラボ!編 |
その1 |
その2 |
その3 |
その4 |
その5 |
その6 |
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版画物語 002
「プレス機の前で会いましょう 版画物語 作家と工人のランデヴー」 |
NADiff a/p/a/r/t
150-0013 東京都渋谷区恵比寿1-18-4
2023.5.19[金]—6.11[日]
協力 : Kawara Printmaking Laboratory Inc.、安藤祐美、みそにこみおでん、阿部宏史 |
本展について
見晴らしの良いベランダで洗濯物を干しながら「ここでの生活にもだいぶ慣れたな」とふと思った。ここは町田市の高ヶ坂にある「版画工房カワラボ!」である。先月開催した蔦屋書店での「遅すぎた青春、版画物語(転写、自己模倣、変奏曲)」展の準備のために「カワラボ!」に滞在しはじめてそろそろ1ヶ月半になる。「カワラボ!」に馴染みすぎてもはや座敷童子のような存在と化している感すらある。作業着を借りることもあるので衣食住のほぼ全てがここで完結しているのだ。いわゆるアーティスト・イン・レジデンスのような水準を超えて深入りしているように思う。
午前10時前に出勤してきたスタッフによる掃除機の音で目覚める。版画工房の1日はせわしない。いくつもの依頼仕事にくわえて作家や学生や趣味で版画をつくっている人が次々に工房を訪れる。年代も属性も異なる人々が版画を介してプレス機の前に集い時間と場をゆるやかに共有する。民間の工房でありながら公民館のような公共性を持っているのだ。税金を原資としたプロジェクトにはない切実さと、町にすっかり溶け込んで機能している在りように尊敬の念を抱いている。現代アートにおいて「ソーシャリー・エンゲイジド」と謳うようなことが「カワラボ!」ではごく自然に行われているのだ。
僕がいまだにここに滞在し続けている理由は蔦屋書店での展覧会の会期中にナディフから依頼があり本展の開催が急遽決まったためである。依頼自体は2年ほど前からあったが是非このタイミングでということだった。本来であれば作陶のために信楽に行く予定だったが「版画物語」は続行されることになった。短期間にかなりの数を作ったので体力と精神力の限界を感じてはいたが「カワラボ!」での生活が終わってしまうのが寂しかったので正直とてもありがたい話だった。前回は「遅すぎた青春」という特別な密度の濃い時間を過ごす中で1ヶ月のあいだに250点ものユニークプリントを生み出した。それらの多くは手彩色を施すことによって版画作品に固有性が付与されていた。しかし最近、僕の中に版画家の自我らしきものが芽生えつつある。アクアチントのために散布する松脂の粉末の密度、スピットバイトと呼ばれる直接腐蝕液を筆に含ませて描画する技法と広い面積の銅を露出させるディープ・エッチングなどの複数の技法が画面上で同時進行、もしくはそれらの中間地点に妙なこだわりを持ち始めたのである。
かつて版画家の中林忠良はこんな言葉を残している。
「現代では、版画もより個性的な絵画であろうとするために、その技法は作家固有の言語に改変されることが多く、その改変が独自の、また多様なイメージを支えているといえよう。」
(中林忠良『もう1つの彩月 -絵とことば-』、《転位’87-地-Ⅰ》に寄せたテキスト「絵の周辺」1988年1月、玲風書房、2012年、p68)
なるほど。僕も中林と同じようなルートに入りつつあるのかもしれない。ひとえに版画と言っても様々だが主題を多少おざなりにしても版画の技法自体に沼のような奥行きがあるためそこに版画家たちは自らの固有性や独自性の立脚点を期待しがちなのだ。また版画技法に伴う物理現象は「深遠なる黒」「小さな宇宙」「自然との深い対話」などの本質主義や詩情の世界とやたら親和性が高い。優れた版画家はそれが高次に達成できていることになっている。僕はその点に複雑な思いを抱いている。中林の師で日本における銅版画のパイオニアと評される駒井哲郎なども美術史的に見ればパウル・クレーなどのエピゴーネンに過ぎないと一蹴することもできるだろう。けれどもその一方で駒井の仕事にはたしかに興味深い成果も散見される。版画自体の作品分析と同時に版画界を形作ってきた教育制度なども一緒に再考していく必要があるだろう。この問いは今後も考え続けていきたい。
そして版画三昧の日々は僕自身のライフスタイルにも大きな変化をもたらした。前述したようにすっかり工房のバイオリズムと同期しつつあり「カワラボ!」の営業時間や銅版画の腐食の時間などこれまでの自分とは違う時間割りに最適化していった。当然のことかもしれないが「ものをつくる」「何かを突き詰める」を徹底しようとすればライフデザインは自ずと変形し歪になっていく。もはや仕事なのかプライベートなのかもわからなくなってきた。僕が「パープルーム」というアート・コレクティブを主宰していることからも明らかなように、かねてより生活と制作を接近させ重ねてしまいたいと切望してきた。それが幸せかと言えば甚だ疑問ではあるのだが。なにかをつくるという行為は創作の喜びをもたらす一方で常に「暗さ」が伴う。本展にはリトグラフを壁紙に流用し部屋全体を版画で覆い尽くす試みも展開される。美学的なものがライフスタイルにどのように影響するのかもっと踏み込んで考えるためである。
今日における版画はいわば型落ちした印刷技術を舞台とした芸術の一ジャンルと言えるだろう。銅版画にしてもリトグラフにしても、もともとは書物を作り思想を広く普及させるための技術だった。今日、わざわざ1枚の、それも実用性のない画像を生成するのにこれだけの労力と時間とコストを投入するのは非合理的であると言わざるを得ない。さらに世界的に見ても版画工房自体の数はかなり少なくなっている。また「版画」を支えてきた産業構造も時代の流れとともに急速に弱体化している。リトグラフに至っては日本でアルミ砂目版を生産しているのは現在一社しかなくなってしまったし、平版自動校正機の生産も受注生産のみになっている。つまり版画の技術の一角は着実にロストテクノロジーへと向かっているのである。そんな状況のもと工房で協働しながら版画をつくる行為は信楽の製陶所での作陶と同様に斜陽産業と個人の制作の並走と言えるだろう。
版画工房は作家と協働して版画作品をつくるのが主な仕事である。僕が「カワラボ!」に滞在できるのもそのモデルに乗っているからである。しかし正直に言えば作れば作るほど己の美術家という主体も、拠って立つ美術自体への信頼も揺らいで崩れていくのを日々実感している。それは僕自身の個人的な問題でもあるが、昨今の美術批評の後退や美術を支えるインフラの変化などとも無関係ではなさそうだ。僕の実感では版画工房や製陶所よりも美術家の方がよっぽど危機的状況にあると感じている。ところで僕が現在、美術家としてかろうじて活動できているのは二十代の頃に戦後日本美術を牽引してきた『美術手帖』のバックナンバーを読み、セゾン文化の流れを汲むナディフに通うことで得た知見や経験に拠るところも大きい。また「カワラボ!」の河原さんも池袋にあったアール・ヴィヴァン(ナディフの前身)に通い詰めていたという。ちなみに1993年にセゾン美術館で開催された「アンゼルム・キーファー展」では作家からサインをもらっている。文化とコンテンツのあり方はこれからも変化していくだろう。実際、現在のSNSやサブスクリプション型のビジネスモデルの隆盛は美術にも当然大きく影響を及ぼしている。そんな中で作家としての矜持や「ものをつくる」の意味もまた当然変わっていくだろう。しかし、ただ「昔は良かった」で済む話ではない。問題の多くは以前から存在したんに見過ごしてきたとだけとも言えるからだ。それらをもう一度考えなおす場所として版画工房は僕にとっては最良だった。版画工房では日常的に市場経済との距離感や産業と美術における技術の差異が具体的に見えるかたちで展開されている。そしてそもそも作家と工人(職人)は簡単に定義できるのだろうか。それぞれの中に内なる作家、内なる工人が存在しているはずだ。版画作品は「規範や伝統からの逸脱」と「地道な修練の積み重ね」の往復を経てはじめて結実するからだ。作品は便宜上、作家に帰属しているに過ぎないのではないか。しかし僕が工房と同化しようと試みたとしても、やはりそれは難しいのかもしれない。今はその抵抗と作家という役割を演じることに作家である自分を逆説的に見ている。作家という主体の限界や欺瞞、情けなさを見つめ直し、勘違いや間違いをも刷り重ねていく。それこそが僕にとっての「版画家」の仕事なのだろう。
なお、本展と同時開催の企画として「みんなの版画掲示板」がナディフの店舗スペースにて展開される。今泉奏、花澤武夫、重野克明、辻元子、尾関立子、小指、わだときわ、冨谷悦子ら複数人の作家の版画を紹介する。それは今後開催される予定の、物故作家から現在活動する作家までが一堂に会する展覧会「みんなの版画物語(仮)」のプレ企画である。美術の世界において版画は周縁のものとみなされがちだが、今一度版画の持つ芸術と産業のポテンシャルを見つめ直し、刷り直す展覧会になる予定だ。物語はひとりでは紡げないのだから。
版画を始めて2ヶ月に満たない僕が言うのもなんだが「プレス機の前で会いましょう」
梅津庸一 |
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NADiff a/p/a/r/t |
「レビューとレポート」版画物語側聞録 |
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